人が亡くなるということ

何故血の繋がっていない僕がただ悲しい気持ちになっているのか

妻の祖父が亡くなりました。享年は、あれ、お幾つだったんだろう。90歳か91歳だったんだと思う。ある意味大往生ですが、それでも老衰ではなくて、末期の胃癌だったというので、世界は怖い。あの御年齢でも老衰で死なない可能性があるのか。

個人的にはやっぱり悲しかった。ふと考えるだけで涙が出てきてしまった。幸い妻と子どもはまだ日本にいて葬儀に参列できるようだけれど、僕は残念ながら難しい。結納後にお会いしたのが初めてだったので、たった3年程度の付き合いだったけど、それでも寂しい。妻から色々お話は聞かされているのだ。良い面も悪い面も、その分妻が持つ愛情でより立体的になっているのだ。だから、じっとしているとやはり涙が零れてくる。

ただ様子がおかしい。妻からのLINEが非常にやさぐれている。なんと誰も死に目に会えなかったという。あれ、何で?胃癌と診断されて余命早くて1週間と先週言われて、それで家に介護用ベッドを持ってきて余生を過ごさせたのではなかったのか。

亡くなられた晩、妻は義母と相当な喧嘩になったらしく、あまりに彼女はやさぐれていた。妻は怒るといっても、自分から積極的に喧嘩を売ったり、相手にきつく言われて反射的に声を上げるタイプではないので、よほど義母の事が頭に来たんだと思う。しかもこれが御霊前で、というのがこれまたよほどに輪をかける。

一つがその義祖父に対する扱いで、余命僅かの状態だから、常に誰か置くべきだという義叔母の意見に妻は非常に賛同していたのだが、義母はかなり放置していたようだ。ベッドは離れで、余程大声を出さないと居住圏内のリビングや台所に届かない。命の炎が燃え尽きる時、義祖父はナースコールを押したようなのだが、それよりも書類への署名を優先させてしまったそうだ。僕だけじゃなくても、義祖父の最期の気持ちは計り知れない。

もう一つが、その後の親族の集まりでの場の義母の態度で、妻のことは罵るわ、嫌いな親族は本人を前にしてバカにするわ、散々だったそうな。お酒も入っているから仕方ないのだが、おいおい、故人をほっぽっといて、何故別の話題になるのか、訳がわからない。その中でいつもは抑え役の義叔母が大激怒し、それに乗る形で妻も、義兄まで義母と喧嘩する事になる。その後の御霊前は記載の通り。

義母は、確かに攻撃的な人間だが、妻が怒っている事は何かしら正当な理由があると分かっているはずなのだ。それなのに御霊前で妻に殴りかかる程の事だから、余程癪に障ったのだろう。また、義理人情に篤い人なので、きっと後で後悔するだろう、相当な暴言を吐くくらい、感情が抑えられなかったんだろう。

目の前にいる妻は否定するけれど、僕くらいは義母が悲しさを騙して憎まれっ子になったんだと思いたい。ただ悲しんでしまうと死にたくなってくるような、そんな悲哀を自分から騙すようにしているんだと思いたい。さてはて、実際はどうなんやら。

 

妻を慰めた一日だったが、でもね、こんなこと起きるならやっぱり別の日に起きてほしかったと思う。折角の場なんだから、思いっきり故人を偲んで欲しい。今一人身の僕だから、誰とも対面で共有できなくて寂しいんだ。だから対面でいる今は、思い切って悲しんで、現実と向かい合うしかないのだ。

まぁ僕がその場にいたわけではないので、説教なんかできる立場ではないけれど。